「良いことも悪いことも、どちらも釣り合うように人生は成り立っている」「うまくいかないのが当たり前」
宗教は、大衆に向けて語られているからこそ、万人に当てはまる主張を運命とすることによって、大衆の心を開放しようと試みた。
僕は一度そういった運命を「絶望」として飲み干したあと、その事実に染まるべきかを考えました。
大衆に言われていることを、自分に適応させるか考えました。
結論は、染まる必要はないという判断をしました。自分には当てはまらないと決めました。
なぜか。僕はそもそも日本における大衆的な生き方をしていないからです。365日「今日は何しよう?」と思って過ごしている27歳は全体の一%もいないでしょう。
僕はどう転んでも幸せだし、いいことしか起こらない。と決めた。宗教で書かれていること、すなわち運命は超越していることにしました。
それができるのは幸せも不幸も運命も、すべては言葉だからだ。猫は幸せとも不幸とも思っちゃいない。言語を持っていないから。この世界で不幸なのは人間だけだ。
それならば、不幸を自分の辞書で消せばいい。不幸とは空想上のものであると決めればいい。
世界は言葉で出来ている。だから、自分で決めた言葉によってあらゆることを乗り越えることができる。
都合の悪いことは、都合の悪いという名前を付けた自分がいるだけです。
僕は冤罪で逮捕されそうになったことがある。そういう事象であれ、自分の志を叶えるために起きているだけで、祝福すべきな最高な事象だ。心からありがたいと思っている。
僕と関わった人は例外なく立派になり、幸せになってしまう。成功するのが当たり前。そういう自分に設定した。言葉と気概によって。
それを不可能だ、傲慢だという人間は、その人にはできなかっただけのこと。申し訳ないけれど、僕にはできる。
そもそも、できないと思わなくちゃならない理由ってなんだろうね。ネガティブな思いを持ってるとお金でも降ってくるのでしょうか。
思うだけならタダなのにさ、自分にはできると思えないのはどういうことだろうね。
この世界は自分の信念の実験場。
僕は365日誰にも縛られず自由になりたいという、子供の頃の夢を叶えたぞ。だからあなたにもできるよ。