指針というものが人間には必要だと思う。

 

生物であれば、与えられた環境の中で順応し、生殖して主に終了。しかし人間だとそういうわけにもいかないらしい。それとは別の指針のようなものがいる。

 

最近僕はコントロールできるものや確固たるものを探しているんだけど、世の中はコントロールできないものだらけだと気づく。

 

なにかが起きることに因って僕らは嬉しがったり悲しがったりするわけだから、感情は自分のものではない(コントロールできていない=自分のものではない)。自分の意思は、過去の経験や欲求を踏まえている。青信号が点滅して、走ろうとするのも、信号機に走らされてるということになる。

 

この記事を読んで「じゃあ信号が点滅しても走らない」という思いも、信号機に走らされているのと同じ構造である。この記事があなたを歩かせている。自分が独立して何かを支配しているものはこの世に存在しない。「これは私のものだ」と思う人が争いを引き起こす。

 

一見自分で選んでいるものは選ばされているものであると言える。医者になることを選んだのは、父親が医者だったからかもしれないし、ドラマで見て影響を受けたのかもしれない。与えられた情報によって、意思決定は左右する。だから、意思でさえ僕は自分のものではないと思っている。見方を変えてみるという行為そのものが、何らかの情報を受けて実現している行為だ。

 

“自分の”思いでさえ、自分のものではないならば、この世界に自分のものは存在しないと決定してもよいのではないか。自分のものだと思っていることは、五感を感じる位置の近くにいるだけか、約束された情報を共有しているというだけにすぎないのだろう。

 

ただ、このような結論をしたところで、この空っぽの気持ちをなんとかできるわけではない。この寂しい気持ちもコントロールできるものではないから。また、このような記事を挙げてみて、含蓄あるコメントをもらって、僕の考えが変わるということは十分にありえる。この考えだって自分のものではないからだ。様々な人の思想や自らの経験を統合した結果、このような考えになっているが、この考えもいつか止揚されることになる。

 

万物は仮である。

 

前提として、自分というものが存在するという仮定でこの話は続けたわけですが、自分というのは存在しないかもしれない。幻想なのかもしれない。自分であるという証明ができないから、自分のために頑張るというのはできない。身体を長持ちさせるために休ませるとか、そういう言い回しになるんじゃないかな。

 

この前提の上で、僕は生涯をかけて人々に指針を出し続けたいと思っております。しかしそのメッセージも仮だし、常により大きな公約数を発見するため生きています。まぁ、参考になれば人生に取り入れりゃいいよね!